北大路魯山人 きたおうじろさんじん(陶芸家 書家 物故作家)
1883(明治16)年〜1959(昭和34)年
 北大路魯山人 「備前四方鉢」
多種多様の卓越した才能を発揮した 北大路魯山人
書に、篆刻に、絵画に、陶芸に、漆芸に、さまざまな芸術分野で第一級の才能を開花させた高度な美的感覚
「 器(うつわ)は料理の着物 」の名言も残したように、食に対するこだわりも大変に強いことが広く知られており、北大路魯山人は美と食の巨人ともよばれました
明治16年(1883年)、京都市北区にある賀茂別雷神社の社家の次男に生まれますが、生後すぐに里子に出されてしまいます。またその後は養子となり、次々に養父母が変わる非常に複雑で不憫な幼少期を過ごします。
しかし、15歳の時に画材を得るために応募した「一字書き」で最高賞の天位、地位、佳作の入賞を皮切りに、大日本書道展にて「隷書」「楷書」と入選し、書家としての非凡な才能を発揮していきました。また、篆刻や濡額でも数々の傑作を作りだしました。
そして、日本各地の数寄者や作家達の知遇を得ることになり、その後は陶芸・絵画・漆芸・古美術商・料理人など美術や工芸だけでなく、北大路魯山人は大変に幅広い分野を探求し続けて活躍しました。
北大路魯山人の作陶
初期の作陶は素地を職人が制作し、北大路魯山人自身は絵付けを担当するという役割分担で陶芸作品を制作されていました。
しかし、陶器は絵付けが主でなくて、土の仕事が主であるという信念のもと、「素地(生地)から作り出す土の仕事を自分でしなくてはならぬ」と決心します。

赤坂山王台の日枝神社境内にあった星岡茶寮を借り受けて改修。大正14年(1925年)には、北大路魯山人が顧問となり、会員制の高級料亭として新たな「星岡茶寮」を開業しました。
その後ついに、大正15年(1926年)の秋から暮れ頃にかけて北鎌倉の山崎に広大な土地を借り、住居を建て、念願の登窯を築窯しました。
この星岡窯、そして昭和2年(1927年)には魯山人窯芸研究所を開設したことにより、職人との合作ではなく、素地(生地)の成形から仕上げに至るまで北大路魯山人自らが手掛けていく、正真正銘の自作というものが自分の窯から生まれ出ることになりました。
これにより更に北大路魯山人の本格的な作陶活動が始まり、濃密な美への探求心と広い範囲での創作活動が加速していきます。
「自然美礼讃」の志を生涯貫き、素材を生かした料理を引き立てる器を創り出し続けた北大路魯山人の作風は、日本国内のみならず海外も含めた文化圏の幅広い世代を魅了し続け、現代でも数多くの人達に愛され続けています。
花田美術の在庫作品や近年取扱った 北大路魯山人作の様々な作品
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