数々の困難を乗り越えて、日本でもフランスでも大活躍した藤田 嗣治
花田美術では藤田嗣治さんの買取相談を承っています。
(๑╹∀╹๑)傷心の藤田 嗣治がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったそうです。
(⊛╹〰╹⊛)そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続きました。
(๑╹∀╹๑)1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなりました。
(⊛╹〰╹⊛)フランス国籍を取得出来たなんて凄いですね!
(๑╹∀╹๑)1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去しました。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(フランス語版)に葬られ、日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈されました。
(⊛╹〰╹⊛)最後を見取った君代夫人はパリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会図録等の監修もしています。
(๑╹∀╹๑)40年以上を経た2009年4月2日に東京で、98歳にて没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂(フランス語版)に埋葬されました。
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(๑╹∀╹๑)2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田 嗣治自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚します。
(⊛╹〰╹⊛)リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[3]、その後離婚します…昼ドラの様な展開ですね…
(๑╹∀╹๑)1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かいました。
(⊛╹〰╹⊛)個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれています。芸能人並の人気者ですね!日本で個展開催の時に本人在廊でもこんなには集まりません…
(๑╹∀╹๑)2年後に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添りました。
(๑╹∀╹๑)1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国しました。
(⊛╹〰╹⊛)フランスに長らく暮らし欧米の事情に通じていた藤田とて、緊迫の一途をたどる当時の政治情勢に逆らうことはできず、日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去ります。
(๑╹∀╹๑)また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあったそうです…
(⊛╹〰╹⊛)日本に帰国してからも波乱の幕開け…この先藤田さんはどうなってしまうのでしょうか?
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(๑╹∀╹๑)藤田 嗣治が面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立されました。
(⊛╹〰╹⊛)以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができ、サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田さんの名声は高まっていったそうです。
(๑╹∀╹๑)当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けていました。
(⊛╹〰╹⊛)やっぱり、日本人はお風呂好きですからね〜。笑 多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれています。彼女は藤田の為にヌードとなったが、その中でも『Nu couché à la toile de Jouy(寝室の裸婦キキ)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられました。
(๑╹∀╹๑)このころ、藤田はそのFoujitaという名から「FouFou(フランス語でお調子者)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていました。
(⊛╹〰╹⊛)可愛らしいあだ名ですね!笑 1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られました。
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(๑╹∀╹๑)戦時中日本に戻っていた藤田 嗣治には陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請がありました。
(⊛╹〰╹⊛)国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだったそうです。
(๑╹∀╹๑)しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現しています。
(⊛╹〰╹⊛)戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい、二度と日本には戻らなかった。フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語ったそうです。
(๑╹∀╹๑)その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも嘆いています…当時の事をあまり気安くは言えませんが…藤田さんにも藤田さんなりの葛藤をしながら描いたのでしょうか…
(⊛╹〰╹⊛)パリでの成功後、そして戦後と、生前の藤田が日本社会から認められる事はついにありませんでした。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」「近代日本画家作品集」等の、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきました。
(๑╹∀╹๑)近年になり、日本でも藤田の展覧会が開かれるようになり、大戦中のプロパガンダ芸術への画家たちの協力は、当時の時代背景から大半の作家にとり回避しえない事柄であり、事実それを断ると公式な展覧会などを含む画壇からの実質的な追放や画材の供給がもらえない等の背景があったそうです。
(⊛╹〰╹⊛)取分け藤田は陸軍関連者の多い家柄にある為軍関係者には知故が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったが故に、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素がありました。
(๑╹∀╹๑)しかし、藤田は元々日本画壇に根ざし属して成功した人物ではなく、欧州での活動で成功していた経緯もあり、当時の日本人画家からは羨望を交えた非難中傷が主な理由で、日本では制作しにくい立場に追いやったことは否めません。
(⊛╹〰╹⊛)しかし現在では、第二の故郷フランスや欧州での美術市場で十分な評価が確立されている以上、美術的に正当な評価を確定したといえるでしょう。
(๑╹∀╹๑)様々な非難を乗り越えた藤田さんだからこそ、描ける作品です。
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(๑╹∀╹๑)藤田 嗣治さんがパリでの生活を始めてわずか一年後の1914年に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮してしまいました。
(⊛╹〰╹⊛)戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあったそうです…自分が描いた絵を燃やしまで温まるなんて相当苦しかったんでしょうね…
(๑╹∀╹๑)そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と二度目の結婚をしました。このころに初めて藤田の絵が売れて、最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3ヵ月後には初めての個展を開くまでになったそうです。
(⊛╹〰╹⊛)私生活も上手くいくと、仕事も上手くいくんですね!笑
(๑╹∀╹๑)シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが序文を書き、よい評価を受けました。また、すぐに絵も高値で売れるようになったそうです。
(⊛╹〰╹⊛)翌1918年に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となりました。
(๑╹∀╹๑)運も実力ですね!
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(๑╹∀╹๑)藤田嗣治さんは1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えました。
(⊛╹〰╹⊛)当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合います。
(๑╹∀╹๑)また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだし、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴ら日本人とも出会っています。
(⊛╹〰╹⊛)このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなったそうです。やっぱり持つべき物は友ですね〜!
(๑╹∀╹๑)本当にそうですね〜!私も(⊛╹〰╹⊛)に感謝してるんですよ♡
(⊛╹〰╹⊛)え♡♡♡私も(๑╹∀╹๑)の事感謝してるよ♡♡♡
(๑╹∀╹๑)(何だかやりづらくなってしまった。笑)パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受けるます。
(⊛╹〰╹⊛)この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ今までの作風を全て放棄することを決意したそうです。
「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っているくらいですから、相当の決意だったんではないでしょうか?
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(๑╹∀╹๑)藤田 嗣治さんは子供の頃から絵を描き始めます。
(⊛╹〰╹⊛)父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごし、1900年に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1905年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業する頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになったんだそうです。
(๑╹∀╹๑)若い頃から志が高いよね〜森鴎外の薦めもあって1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学するが、当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動したそうです。
(⊛╹〰╹⊛)観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていて、1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品したが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選してしまっています。
(๑╹∀╹๑)でも後に大活躍して日本だけでなく、フランスでも有名な画家になるもんね〜凄いなぁ!
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(๑╹∀╹๑)藤田 嗣治さんは東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれたそうです。
(⊛╹〰╹⊛)お医者さんと画家、無縁の様だけど何か繋がりがあるのかなぁ〜?
(๑╹∀╹๑)父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物て、兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎だそうです。(妻は児玉の四女)。
(⊛╹〰╹⊛)学校の教科書に出てくる凄い人ばかり!
(๑╹∀╹๑)また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(詩人中原中也の名づけ親<父が中村の当時部下>)が、従兄には小山内薫がいるそうです。甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいて、その他の親族に関しては廣澤金次郎・石橋正二郎・鳩山由紀夫・郷和道・吉國一郎・吉國二郎(6人とも藤田と姻戚関係にある)の各項目に掲載されている系図を参照。藤田もこの系図に掲載されているそうです。
(⊛╹〰╹⊛)甥が舞踊評論家や建築家などの美術関係だったり、他にも様々な職業の方が沢山居るから、その影響で藤田さんも素晴らしい画家になったんだね。
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先週の棟方志功さんに引き続き、今週からは藤田 嗣治さんを(๑╹∀╹๑)と(⊛╹〰╹⊛)の対談形式で紹介したいと思います。
(๑╹∀╹๑)藤田 嗣治さんには、(ふじた つぐはる、レオナール・フジタ、Léonard Foujita )の別名もあるんだって!
(⊛╹〰╹⊛)かっこいい!東京都出身の洋画家でフランスにおいて最も有名な日本人画家だから、フランスでも通じる名前なのかな?
(๑╹∀╹๑)そうみたいだね!日本画の技法を油彩画に取り入れた独特な表現はエコール・ド・パリの代表的な画家だそうです。
(๑╹∀╹๑)ご本人さんも写真で見る限り普通の日本人っぽくはないよね!笑
(⊛╹〰╹⊛)フランスらしいマッシュルームカットがお似合いでお洒落です。
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