(๑╹∀╹๑)と(⊛╹〰╹⊛)⑤〜藤田 嗣治戦争画編〜

(๑╹∀╹๑)戦時中日本に戻っていた藤田 嗣治には陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請がありました。

(⊛╹〰╹⊛)国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだったそうです。

(๑╹∀╹๑)しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現しています。

(⊛╹〰╹⊛)戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい、二度と日本には戻らなかった。フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語ったそうです。

(๑╹∀╹๑)その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも嘆いています…当時の事をあまり気安くは言えませんが…藤田さんにも藤田さんなりの葛藤をしながら描いたのでしょうか…

(⊛╹〰╹⊛)パリでの成功後、そして戦後と、生前の藤田が日本社会から認められる事はついにありませんでした。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」「近代日本画家作品集」等の、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきました。

(๑╹∀╹๑)近年になり、日本でも藤田の展覧会が開かれるようになり、大戦中のプロパガンダ芸術への画家たちの協力は、当時の時代背景から大半の作家にとり回避しえない事柄であり、事実それを断ると公式な展覧会などを含む画壇からの実質的な追放や画材の供給がもらえない等の背景があったそうです。

(⊛╹〰╹⊛)取分け藤田は陸軍関連者の多い家柄にある為軍関係者には知故が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったが故に、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素がありました。

(๑╹∀╹๑)しかし、藤田は元々日本画壇に根ざし属して成功した人物ではなく、欧州での活動で成功していた経緯もあり、当時の日本人画家からは羨望を交えた非難中傷が主な理由で、日本では制作しにくい立場に追いやったことは否めません。

(⊛╹〰╹⊛)しかし現在では、第二の故郷フランスや欧州での美術市場で十分な評価が確立されている以上、美術的に正当な評価を確定したといえるでしょう。

(๑╹∀╹๑)様々な非難を乗り越えた藤田さんだからこそ、描ける作品です。

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