(๑╹∀╹๑)と(⊛╹〰╹⊛)⑦〜藤田嗣治日本への帰国編〜

(๑╹∀╹๑)2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田 嗣治自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚します。

(⊛╹〰╹⊛)リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[3]、その後離婚します…昼ドラの様な展開ですね…

(๑╹∀╹๑)1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かいました。

(⊛╹〰╹⊛)個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれています。芸能人並の人気者ですね!日本で個展開催の時に本人在廊でもこんなには集まりません…

(๑╹∀╹๑)2年後に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添りました。

(๑╹∀╹๑)1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国しました。

(⊛╹〰╹⊛)フランスに長らく暮らし欧米の事情に通じていた藤田とて、緊迫の一途をたどる当時の政治情勢に逆らうことはできず、日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去ります。

(๑╹∀╹๑)また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあったそうです…

(⊛╹〰╹⊛)日本に帰国してからも波乱の幕開け…この先藤田さんはどうなってしまうのでしょうか?

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