横山 操〜会場芸術の中で③〜

(u_u)当初、横山 操さんは場末の光景を抑揚ある筆で、親密に描いていました。

(°_°)しかし、その後、千住のいわゆるお化け煙突をモティーフにした《十文字》(1955年)、《ビルディ ング》 (1956年)のように、感傷的な哀感は抑制され、次第に対象の構築性を強調しながらも、逞しい作品を描くようになります。

(u_u)それは、当時の復興していく都市における建造物と、その生活を描いたもので、時代の動きを鋭敏に反映した作品となっていて、定型的な精神主義的日本画とは異なり、あくまで現実の実感を主にしたものだったそうです。

IMG_2219.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜会場芸術の中で②〜

(u_u)横山 操さんに対して龍子は、「繊細巧緻なる現下一般的な作風に対しての健剛なる芸術への進軍」(第1回青龍展目録 1929(昭和4)年 と主張して院展を離れ、床の間芸術に対して「会場芸術」「展覧会芸術」を唱導しました。

(°_°)それは、「大衆の鑑賞心理」をつかみ、「時代に即す、または時代に先行する」溌刺たる精神をもつ平易で明快な絵画であったそうです。

(u_u)青龍展では多様な画題が描かれたが、技法上では日本の古典から洋画風までを積極的に取り入れ、刷毛によって描かれた大画面のものが多かったそうです。

IMG_2175.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜会場芸術の中で①〜

(u_u)横山 操さんは以後1952(昭和37)年に脱退するまでの12年間、川端龍子の率いるこの青龍社の春秋の展覧会を主な舞台として連続出品しています。

(°_°)ことに1953年の春の青龍展から6年間は11回連続して受賞しており、青龍社の若き中心作家のー人として、めざましい活躍をみせました。6年間と言えば、小学校卒業できちゃう長さですよね!笑

(u_u)この間、横山は厳しい絵画指導のほか、「絵とは常に時代とともに、民衆とともにあるべき」という姿勢も含め、龍子から全人的な教育を受けていたそうです。

IMG_2173.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜川端 龍子のもとへ②〜

(°_°)その後横山 操さんは時が許せば青龍社での活動を続けていただろうが、この年、20歳にして召集を受け、以後中国各地を転戦し、終戦とともにシベリア(カザフ共和国)のカラガンダに抑留され、石炭採掘を続けねばならなくなってしまいました。

(u_u)その後、帰国して青龍社に復帰したのは、1950(昭和25)年のことです。

(°_°)この年30歳になっていた横山操は、20代を表現者として生きられなかったことになり、「抑留生活十年の空白を、早くとりかえしたいとあせる」こととなるが、横山の爆発的な戦闘的制作を考えると、この抑留期は「かえって貴きものに思われる。(加山又造)」10年間とも言えます。

(u_u)厳しい抑留体験は、青龍社への復帰第1作である《カラガンダの印象》という、炭鉱のボタ山の全景を遠方からとらえた一作に込められ、翌年からは《沼浴ひの町》、《ショーウィンド》など、町の一角を描くようになります。

(°_°)それは同じくシベリア抑留者として一生、絵画主題として抑留体験にこだわった香月泰男の場合と鋭い対照をみせているからだそうです。

(u_u)過去に執着するのではなく、常に現在形で現実に臨もうとしている横山と香月では、作家にとっての絵画の役割が異なっていたのでしょう。

IMG_2174.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜川端 龍子のもとへ①〜

(u_u)横山 操さんは小学校在学中より油彩画を描き、高等科卒業後の14歳のときに画家を志し、上京しました。

(°_°)その後、光風会会員石川雅山(がざん)の家に下宿し、ポスター描きなどを続けながら油彩を学び、18歳のときにはすでに光風会に初入選を遂げています。18歳と言えば、私と同い年。素晴らしいですね!

(u_u)しかし、石川のすすめで日本画に転向し、翌年の1939(昭和14)年には川端画学校日本画部(夜間部)に入学。前年に小林巣居(こばやしそうきょ)、茨城杉風らが院展を離脱して自由な在野性を強調して興した新興美術院展に、早くもその年に入選しています。

(°_°)油絵で基礎が出来てるから、日本画でも入選したんですね!

(u_u)しかし、ほかの同世代の日本画家と異なり、「日本画」への入り方は、必ずしも美術学校で正則的に学んだものではなかったといわれています。

(°_°)さらに翌1940年、川端龍子を中心とする第12回青龍展に《渡舟場》を出品 し、初入選す し、「青龍社はそのころ、一番新しい時代の絵画を歓迎しつつあった。青龍社に入選することが、アバンギャルドの一員になったような気がして嬉しかったものであった」と後年、横山は記しているそうです。

(u_u)戦前の横山の絵は残っていないが、画題などから推するに、当初から既存の花鳥風月とは異なって、《隅田河岸》などの“街裏”の一隅をモティーフにしていたことがわかります。

(°_°)横山は、このように油彩画の延長として、ほぼ同じ主題を描いていたが、当時の青龍社ほかの先鋭なグループにも、都会生活の断片を描く一群の作品がありました。

IMG_2175.JPG

花田美術では横山 操さんの買取価格を承っております。

横山 操〜越後の神話編〜

今回から横山 操さんを(u_u)と(°_°)でご紹介します。

IMG_2173.JPG

(u_u)雪に埋もれるように、越後平野の厳しい風景には神話がひろがっています。

(°_°)一つは良寛神話であり、そして、ほぼ同じ土地に横山操の人物像はやや過剰な脚色とともに語られてきました。

(u_u)弥彦(やひこ)山に近い広大な田園の広がる吉田町の中心部に、1920(大正9)年、横山操は生まれました。

(°_°)町医者の家の私生児で、まもなく薬局を営む横山家に養子に出された彼が、その後の幼少年時代に自殺を考えるほど孤独な悲劇的生活を送ったか、むしろ反対に大事に育てられ朗らかな少年だったか、という「議論」があります。私は自殺を考えた事が無いので、とても悩んでいたんだなと思いました。

(u_u)横山自身が、生前から不幸な境遇を演出していたというが、他方、彼の文章には意外なほど「母なる自然」の叙情的風景が記されています。

(°_°)具体的な出生や育ち方の身上調査をしても、横山の作品を脚色する強引で一面的な解釈しか導かれないのでは、あまり意味はありません。

(u_u)ここでは、横山の絵画自体をこそ、いま一度熱視して、たどりなおしてみましょう。

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

今週からは…横山 操さん!

横山 操さんは日本画家です。煤や石灰などを画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴です。

見た目には洋画に近い作風ともいえるが、日本画です。

IMG_2172.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

次回から恒例の対談形式でご紹介させていただきます!……お楽しみに!

青木 繁

青木 繁さんは久留米市出身の洋画家です。

『海の幸』の作者として知られる繁は、満28歳の若さで没した繁の生涯は半ば伝説化しています。

日本の古代神話などをモチーフにした浪漫的色彩の濃い作風は西洋美術の物まねではない独自のものとして高く評価されています。

IMG_2162.JPG

花田美術では青木 繁さんの買取相談を承っております。