横山 操〜青龍社脱退・造形から精神性へ⑥〜

横山は同じ1963年秋、伝統的画題である《瀟湘八景》にあえて挑み、また1968年には《越路十景》を発表する。前者は、余白を生かした墨の浸透性を表現力として用いている。巨大な空間のなかでの精神的な距離・広がりこそが、主題となっていよう。

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横山 操〜青龍社脱退・造形から精神性へ⑤〜

(u_u)また、これらの色彩の華やかな作品の一方で、脱退直後の《海》(1963年)ように墨による表現にも強く意を注いでいました。

(°_°)さらに、構成の面では構築的で平面的なものから、《雪原》(1963年)のように、これまで見られなかった遠方への奥行のある、広がりをもった画面が描かれるようになります。

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横山 操〜青龍社脱退・造形から精神性へ④〜

(u_u)モティーフはその後、《高速四号線》(1964年)、《TOKYO》(1968年)などを例外として、現実の建造物や都市を描くことは少なくなりました。

(°_°)代わりに、個人で活動を始めた横山が、初めに主題にしたのが故郷越後であったように、以後、自らの原風景を繰り返し描いたのです。

(u_u)また赤富士を多作して横山は画壇の人気作家となり、そこでは、これまで排除されてきた優美な装飾性が、富士などの既存の象徴を舞台に展開されています。

(°_°)そしてこれまで豪放な作詞のかたわらで伏流していた繊細な叙情性が全面に出はじめます。

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横山 操〜青龍社脱退・造形から精神性へ③〜

(u_u)1962(昭和37)年、青龍展に出品予定の《十勝岳》に対しての、青龍社内部からの縮小要請を契機に、横山は青龍社を脱退します。

(°_°)それは、実際には社内 での「人間と人間という、個的な理由」によっていたといわれています。

(u_u)翌年、龍子は青龍社は自分の生前限りで終了すると宣言し、そのことばどおり、横山脱退後4年目の龍子死去をもって同社は解散したそうです。

(°_°)横山の龍子への敬愛は終始一貫しているが、その脱退の翌年、あえて「第1回個展」と記し、「越後風景展」は、絵画上でも明らかに一つの転回点となりました。

横山 操〜青龍社脱退・造形から精神性へ②〜

(u_u)作品をたんなる直截的な個的激情の場から、絵画として明快に統御されたものへと展開したことと、その当時から始まる画壇における人気作家への道は、横山の場合、表裏一体となって重なっています。

(°_°)絵画としての普遍化が、一般的な大衆化へと結びつくのであります。

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横山 操〜青龍社脱退・造形から精神性へ①〜

(°_°)1959(昭和34)年からは加山又造、石本正と轟会に出品し、また日本国際美術展、現代日本美術展などにも招待されたりと、このころから横山は青龍社を超えて画壇的な評価を確立しだします。

(u_u)色数は増え、小品も描くようになります。

(°_°)そして、 1960年、深大寺(東京者調布市)にアトリエを新築した際に過去のみずからの作品を焼却し、翌年、アメリカに旅立ちます。

(u_u)自分の大切な作品を焼却してしまうなんて、決意の現れですね!

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横山 操〜会場芸術の中で⑦〜

(u_u)とくに1958~61年ころは、ビュッフェを想起させる明確な輪郭線を多用したり、《MADO(窓)》のような抽象的な形態の単純化をみせる時期です。

(°_°)当時の欧米絵画の本格的紹介と画壇の抽象系絵画への傾斜を背景に、そこには自己の感情を抑え、理知的な画面づくりをおこなおうとする姿が鮮明であります。

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横山 操〜会場芸術の中で⑤〜

(u_u)また、この年の第28青龍展に出品した《炎炎桜島》は青龍賞を受賞しました。

(°_°)同賞は本来社人以外のものに与える最高賞で、第3回展(1931年)における落合郎風《華厳仏》以来の受賞であり、龍子も「桜島の火を噴くが如き形相」と記し、その大きな期待をうかがわせていたそうです。

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横山 操〜会場芸術の中で⑥〜

(°_°)さらに翌年の1957年い青龍展に出品した高さが3メートル以上にもおよぶ《塔》において、横山は一つの頂点を迎えています。

(°_°)当初、日常に見いだす対象のリアルな把握から始まり、《溶鉱炉》などでさらなる巨大化をめざすなかで、横山の画面は、力任せの奔放な描写を見せてきました。

(u_u)《塔》においても逞しい筆致に変わりはないが、ここにおいて絵画は骨太な線や巧みな配置により、より明確な構造性をみせはじめ、以後、《犬吠》 《建設》 《送電源》などでは、直線によって輪郭づける明快な形態の把握と、その緊密な構成が特徴となっています。

(°_°)また、黒を主としたモノトーンの画面から、金・銀箔を多用して強く色彩対比をおこなう作品へと移行し始め、《塔》は、放縦な刷毛による、物の存在感の描写と、それを構成・統御しようとする意欲のなかで立っています。

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横山 操〜会場芸術の中で④〜

(u_u)1956(昭和31)年1月、横山は第1回個展を銀座松坂屋でおこなっています。

(°_°)個展を行った松山さんも凄いですが、今でもある銀座松屋さんも凄いです、、、笑

(u_u)勤務先であるネオン会社の社長の好意から、鶯谷の事務所を借り大作に取り組んでいたが、個展に際しては画廊の壁面いっばいに描いた作品を発表しました。

(°_°)《溶鉱炉》、《川》、《網》という破格の巨大な作品を、石灰を顔料と混合して黒を基調に描き、《溶鉱炉》は、荒いタッチで未整理の部分もあるものの、横長の画面を巨大な柱が分断し、さらにワイヤー状のものが横に大きく弧を描き、熱気ある臨場感あふれた激しい画面となっています。

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