藤田 嗣治〜私のお気に入り作品特集〜

藤田 嗣治さんの魅力について対談形式で紹介してきました。今日から来週までの残り2日間は藤田 嗣治さんの作品の中で私のお気に入りを紹介していきます。

ちなみに前回までのブログを読んでない方は是非コチラからお読みください!

IMG_1478.JPG

花田美術では藤田嗣治さんの買取相談を承っています。

(๑╹∀╹๑)と(⊛╹〰╹⊛)⑧〜藤田 嗣治 晩年編〜

(๑╹∀╹๑)傷心の藤田 嗣治がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったそうです。

(⊛╹〰╹⊛)そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続きました。

(๑╹∀╹๑)1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなりました。

(⊛╹〰╹⊛)フランス国籍を取得出来たなんて凄いですね!

(๑╹∀╹๑)1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去しました。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(フランス語版)に葬られ、日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈されました。

(⊛╹〰╹⊛)最後を見取った君代夫人はパリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会図録等の監修もしています。

(๑╹∀╹๑)40年以上を経た2009年4月2日に東京で、98歳にて没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂(フランス語版)に埋葬されました。

IMG_1490.JPG

花田美術では藤田 嗣治さんの買取相談を承っています。

(๑╹∀╹๑)と(⊛╹〰╹⊛)⑦〜藤田嗣治日本への帰国編〜

(๑╹∀╹๑)2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田 嗣治自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚します。

(⊛╹〰╹⊛)リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[3]、その後離婚します…昼ドラの様な展開ですね…

(๑╹∀╹๑)1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かいました。

(⊛╹〰╹⊛)個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれています。芸能人並の人気者ですね!日本で個展開催の時に本人在廊でもこんなには集まりません…

(๑╹∀╹๑)2年後に日本に帰国、1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添りました。

(๑╹∀╹๑)1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国しました。

(⊛╹〰╹⊛)フランスに長らく暮らし欧米の事情に通じていた藤田とて、緊迫の一途をたどる当時の政治情勢に逆らうことはできず、日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去ります。

(๑╹∀╹๑)また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあったそうです…

(⊛╹〰╹⊛)日本に帰国してからも波乱の幕開け…この先藤田さんはどうなってしまうのでしょうか?

IMG_1492.JPG

花田美術では藤田嗣治さんの買取相談を承っています。

週に一回更新しているコチラも宜しくお願いします。

(๑╹∀╹๑)と(⊛╹〰╹⊛)⑥〜藤田 嗣治パリへの寵児編〜

(๑╹∀╹๑)藤田 嗣治が面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立されました。

(⊛╹〰╹⊛)以後、サロンに出すたびに黒山の人だかりができ、サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田さんの名声は高まっていったそうです。

(๑╹∀╹๑)当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けていました。

(⊛╹〰╹⊛)やっぱり、日本人はお風呂好きですからね〜。笑 多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれています。彼女は藤田の為にヌードとなったが、その中でも『Nu couché à la toile de Jouy(寝室の裸婦キキ)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられました。

(๑╹∀╹๑)このころ、藤田はそのFoujitaという名から「FouFou(フランス語でお調子者)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていました。

(⊛╹〰╹⊛)可愛らしいあだ名ですね!笑 1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られました。

IMG_1494.JPG

花田美術では藤田嗣治さんの買取相談を承っています。

週に一回更新しているコチラも宜しくお願いします。

(๑╹∀╹๑)と(⊛╹〰╹⊛)⑤〜藤田 嗣治戦争画編〜

(๑╹∀╹๑)戦時中日本に戻っていた藤田 嗣治には陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請がありました。

(⊛╹〰╹⊛)国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだったそうです。

(๑╹∀╹๑)しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現しています。

(⊛╹〰╹⊛)戦後になり、日本美術会の書記長内田巌(同時期に日本共産党に入党)などにより半ば生贄に近い形で戦争協力の罪を非難された彼は、渡仏の許可が得られると「日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してパリへ向かい、二度と日本には戻らなかった。フランスに行った後、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく藤田は語ったそうです。

(๑╹∀╹๑)その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」のになぜ非難されなければならないか、と手記の中でも嘆いています…当時の事をあまり気安くは言えませんが…藤田さんにも藤田さんなりの葛藤をしながら描いたのでしょうか…

(⊛╹〰╹⊛)パリでの成功後、そして戦後と、生前の藤田が日本社会から認められる事はついにありませんでした。また君代夫人も没後「日本近代洋画シリーズ」「近代日本画家作品集」等の、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断ってきました。

(๑╹∀╹๑)近年になり、日本でも藤田の展覧会が開かれるようになり、大戦中のプロパガンダ芸術への画家たちの協力は、当時の時代背景から大半の作家にとり回避しえない事柄であり、事実それを断ると公式な展覧会などを含む画壇からの実質的な追放や画材の供給がもらえない等の背景があったそうです。

(⊛╹〰╹⊛)取分け藤田は陸軍関連者の多い家柄にある為軍関係者には知故が多く、また戦後占領軍としてGHQで美術担当に当たった米国人担当者とも友人であったが故に、戦後の戦争協力者としてのリストを作るときの窓口となる等の点などで槍玉にあげられる要素がありました。

(๑╹∀╹๑)しかし、藤田は元々日本画壇に根ざし属して成功した人物ではなく、欧州での活動で成功していた経緯もあり、当時の日本人画家からは羨望を交えた非難中傷が主な理由で、日本では制作しにくい立場に追いやったことは否めません。

(⊛╹〰╹⊛)しかし現在では、第二の故郷フランスや欧州での美術市場で十分な評価が確立されている以上、美術的に正当な評価を確定したといえるでしょう。

(๑╹∀╹๑)様々な非難を乗り越えた藤田さんだからこそ、描ける作品です。

IMG_1499.JPG

花田美術では藤田嗣治さんの買取相談を承っています。

週に一回更新しているコチラも宜しくお願いします。

(๑╹∀╹๑)と(⊛╹〰╹⊛)④〜藤田 嗣治第一次世界大戦編〜

(๑╹∀╹๑)藤田 嗣治さんがパリでの生活を始めてわずか一年後の1914年に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮してしまいました。

(⊛╹〰╹⊛)戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあったそうです…自分が描いた絵を燃やしまで温まるなんて相当苦しかったんでしょうね…

(๑╹∀╹๑)そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と二度目の結婚をしました。このころに初めて藤田の絵が売れて、最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3ヵ月後には初めての個展を開くまでになったそうです。

(⊛╹〰╹⊛)私生活も上手くいくと、仕事も上手くいくんですね!笑

(๑╹∀╹๑)シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモンが序文を書き、よい評価を受けました。また、すぐに絵も高値で売れるようになったそうです。

(⊛╹〰╹⊛)翌1918年に終戦を迎えたことで、戦後の好景気にあわせて多くのパトロンがパリに集まってきており、この状況が藤田に追い風となりました。

(๑╹∀╹๑)運も実力ですね!

IMG_1496.JPG

花田美術では藤田嗣治さんの買取相談を承っています。

週に一回更新しているコチラも宜しくお願いします。