カテゴリー別アーカイブ: 未分類

横山 操〜青龍社脱退・造形から精神性へ①〜

(°_°)1959(昭和34)年からは加山又造、石本正と轟会に出品し、また日本国際美術展、現代日本美術展などにも招待されたりと、このころから横山は青龍社を超えて画壇的な評価を確立しだします。

(u_u)色数は増え、小品も描くようになります。

(°_°)そして、 1960年、深大寺(東京者調布市)にアトリエを新築した際に過去のみずからの作品を焼却し、翌年、アメリカに旅立ちます。

(u_u)自分の大切な作品を焼却してしまうなんて、決意の現れですね!

IMG_2213.JPG

花田美術では横山操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜会場芸術の中で⑦〜

(u_u)とくに1958~61年ころは、ビュッフェを想起させる明確な輪郭線を多用したり、《MADO(窓)》のような抽象的な形態の単純化をみせる時期です。

(°_°)当時の欧米絵画の本格的紹介と画壇の抽象系絵画への傾斜を背景に、そこには自己の感情を抑え、理知的な画面づくりをおこなおうとする姿が鮮明であります。

IMG_2215.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜会場芸術の中で⑤〜

(u_u)また、この年の第28青龍展に出品した《炎炎桜島》は青龍賞を受賞しました。

(°_°)同賞は本来社人以外のものに与える最高賞で、第3回展(1931年)における落合郎風《華厳仏》以来の受賞であり、龍子も「桜島の火を噴くが如き形相」と記し、その大きな期待をうかがわせていたそうです。

IMG_2217.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜会場芸術の中で⑥〜

(°_°)さらに翌年の1957年い青龍展に出品した高さが3メートル以上にもおよぶ《塔》において、横山は一つの頂点を迎えています。

(°_°)当初、日常に見いだす対象のリアルな把握から始まり、《溶鉱炉》などでさらなる巨大化をめざすなかで、横山の画面は、力任せの奔放な描写を見せてきました。

(u_u)《塔》においても逞しい筆致に変わりはないが、ここにおいて絵画は骨太な線や巧みな配置により、より明確な構造性をみせはじめ、以後、《犬吠》 《建設》 《送電源》などでは、直線によって輪郭づける明快な形態の把握と、その緊密な構成が特徴となっています。

(°_°)また、黒を主としたモノトーンの画面から、金・銀箔を多用して強く色彩対比をおこなう作品へと移行し始め、《塔》は、放縦な刷毛による、物の存在感の描写と、それを構成・統御しようとする意欲のなかで立っています。

IMG_2216.JPG

花田美術では横山操さんの買取相談を承っております

横山 操〜会場芸術の中で④〜

(u_u)1956(昭和31)年1月、横山は第1回個展を銀座松坂屋でおこなっています。

(°_°)個展を行った松山さんも凄いですが、今でもある銀座松屋さんも凄いです、、、笑

(u_u)勤務先であるネオン会社の社長の好意から、鶯谷の事務所を借り大作に取り組んでいたが、個展に際しては画廊の壁面いっばいに描いた作品を発表しました。

(°_°)《溶鉱炉》、《川》、《網》という破格の巨大な作品を、石灰を顔料と混合して黒を基調に描き、《溶鉱炉》は、荒いタッチで未整理の部分もあるものの、横長の画面を巨大な柱が分断し、さらにワイヤー状のものが横に大きく弧を描き、熱気ある臨場感あふれた激しい画面となっています。

IMG_2218.JPG

花田美術では横山操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜会場芸術の中で③〜

(u_u)当初、横山 操さんは場末の光景を抑揚ある筆で、親密に描いていました。

(°_°)しかし、その後、千住のいわゆるお化け煙突をモティーフにした《十文字》(1955年)、《ビルディ ング》 (1956年)のように、感傷的な哀感は抑制され、次第に対象の構築性を強調しながらも、逞しい作品を描くようになります。

(u_u)それは、当時の復興していく都市における建造物と、その生活を描いたもので、時代の動きを鋭敏に反映した作品となっていて、定型的な精神主義的日本画とは異なり、あくまで現実の実感を主にしたものだったそうです。

IMG_2219.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜会場芸術の中で②〜

(u_u)横山 操さんに対して龍子は、「繊細巧緻なる現下一般的な作風に対しての健剛なる芸術への進軍」(第1回青龍展目録 1929(昭和4)年 と主張して院展を離れ、床の間芸術に対して「会場芸術」「展覧会芸術」を唱導しました。

(°_°)それは、「大衆の鑑賞心理」をつかみ、「時代に即す、または時代に先行する」溌刺たる精神をもつ平易で明快な絵画であったそうです。

(u_u)青龍展では多様な画題が描かれたが、技法上では日本の古典から洋画風までを積極的に取り入れ、刷毛によって描かれた大画面のものが多かったそうです。

IMG_2175.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜会場芸術の中で①〜

(u_u)横山 操さんは以後1952(昭和37)年に脱退するまでの12年間、川端龍子の率いるこの青龍社の春秋の展覧会を主な舞台として連続出品しています。

(°_°)ことに1953年の春の青龍展から6年間は11回連続して受賞しており、青龍社の若き中心作家のー人として、めざましい活躍をみせました。6年間と言えば、小学校卒業できちゃう長さですよね!笑

(u_u)この間、横山は厳しい絵画指導のほか、「絵とは常に時代とともに、民衆とともにあるべき」という姿勢も含め、龍子から全人的な教育を受けていたそうです。

IMG_2173.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜川端 龍子のもとへ②〜

(°_°)その後横山 操さんは時が許せば青龍社での活動を続けていただろうが、この年、20歳にして召集を受け、以後中国各地を転戦し、終戦とともにシベリア(カザフ共和国)のカラガンダに抑留され、石炭採掘を続けねばならなくなってしまいました。

(u_u)その後、帰国して青龍社に復帰したのは、1950(昭和25)年のことです。

(°_°)この年30歳になっていた横山操は、20代を表現者として生きられなかったことになり、「抑留生活十年の空白を、早くとりかえしたいとあせる」こととなるが、横山の爆発的な戦闘的制作を考えると、この抑留期は「かえって貴きものに思われる。(加山又造)」10年間とも言えます。

(u_u)厳しい抑留体験は、青龍社への復帰第1作である《カラガンダの印象》という、炭鉱のボタ山の全景を遠方からとらえた一作に込められ、翌年からは《沼浴ひの町》、《ショーウィンド》など、町の一角を描くようになります。

(°_°)それは同じくシベリア抑留者として一生、絵画主題として抑留体験にこだわった香月泰男の場合と鋭い対照をみせているからだそうです。

(u_u)過去に執着するのではなく、常に現在形で現実に臨もうとしている横山と香月では、作家にとっての絵画の役割が異なっていたのでしょう。

IMG_2174.JPG

花田美術では横山 操さんの買取相談を承っております。

横山 操〜川端 龍子のもとへ①〜

(u_u)横山 操さんは小学校在学中より油彩画を描き、高等科卒業後の14歳のときに画家を志し、上京しました。

(°_°)その後、光風会会員石川雅山(がざん)の家に下宿し、ポスター描きなどを続けながら油彩を学び、18歳のときにはすでに光風会に初入選を遂げています。18歳と言えば、私と同い年。素晴らしいですね!

(u_u)しかし、石川のすすめで日本画に転向し、翌年の1939(昭和14)年には川端画学校日本画部(夜間部)に入学。前年に小林巣居(こばやしそうきょ)、茨城杉風らが院展を離脱して自由な在野性を強調して興した新興美術院展に、早くもその年に入選しています。

(°_°)油絵で基礎が出来てるから、日本画でも入選したんですね!

(u_u)しかし、ほかの同世代の日本画家と異なり、「日本画」への入り方は、必ずしも美術学校で正則的に学んだものではなかったといわれています。

(°_°)さらに翌1940年、川端龍子を中心とする第12回青龍展に《渡舟場》を出品 し、初入選す し、「青龍社はそのころ、一番新しい時代の絵画を歓迎しつつあった。青龍社に入選することが、アバンギャルドの一員になったような気がして嬉しかったものであった」と後年、横山は記しているそうです。

(u_u)戦前の横山の絵は残っていないが、画題などから推するに、当初から既存の花鳥風月とは異なって、《隅田河岸》などの“街裏”の一隅をモティーフにしていたことがわかります。

(°_°)横山は、このように油彩画の延長として、ほぼ同じ主題を描いていたが、当時の青龍社ほかの先鋭なグループにも、都会生活の断片を描く一群の作品がありました。

IMG_2175.JPG

花田美術では横山 操さんの買取価格を承っております。