棟方志功さんのこの作品は緑を基調とした鮮やかな作品です。
以前のブログにも書いた通り、女性の優美な表情が特徴です。
花田美術では棟方志功さんの買取相談を承っています。
(@_@)受賞以後の棟方志功さんは常識の枠を破った版画のような大作をつぎつぎと発表します
(O_O)1957年【郡生の柵】、1958年【海山の柵】、1960年【鷺畷(さぎなわて)の柵】、1961年【花矢の柵】、1963年【恐山の柵】。描線は次第に厳しくなり、郷里青森に捧げるもの狂おしい表現が多くなっていたんだそうです。
(@_@)一方、このころから女の顔というか仏の顔の優美な板画も増えてゆく。この一見矛盾する2つの方向を総合した結論ともいえるのが【大世界の柵】である。
(O_O)乾坤(けんこん)2部(坤・・・昭和38年、乾・・・昭和44年)天地1.7m、左右27m、世界最大の版画だそうです。
(@_@)B1パネルを描くだけでヒーヒー言うのに、この大きさなら完成までにどのくらい時間が掛かったんだろう…
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(@_@)棟方志功さんの奮闘ぶりを評価したのはまず海外だったそうです。
(O_O)へぇ〜…どういうキッカケで作品が海外に知られたの?当時にしては珍しい、凄い事なんじゃない?
(@_@)1952年(昭和27年)4月第2回ルガノ国際版画展で【女人観世音板画巻】で優秀賞を受賞、1955年(昭和30年)7月第3回サンパウロ・ビエンナーレ展に【釈迦十大弟子】などを出品し版画部門最高賞を受賞、翌1956年(昭和31年)ヴェネチア・ビエンナーレ展では【湧然する女者達々(にょしゃたちたち)】【柳緑(りゅうりょく)花紅頌】などで国際版画大賞を受け「世界のムナカタ」の地位を確立します。
(O_O)かっこい〜!今はSNS等を通じて積極的に海外に発信出来るけど、当時は積極的にコンクールに出さなきゃ行けなかったんだね…
(@_@)美術の流行に無縁の新鮮な表現、ほとんど西洋の影響がなく、土俗に徹し切ったところから生まれる普遍性が、先入観を持たない欧米人の眼に新鮮な驚きを与えたのだろう。しかし日本の美術界の反応は鈍かった。もともと版画がマイナー視されていたうえ、志功の作風も経験も画壇の美意識に合わなかったためか、国内での受賞は、1965年(昭和40年)の朝日賞まで、このあと10年もかかることとなる。だから日本でも積極的にコンクールに参加していたけど難しかったみたい…
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(@_@)棟方志功さんの「板」の世界にさらに深みを加える機会がまもなくやってきました!
(O_O)翌1936年(昭和11年)春の国画会展に【大和し美し(うるわし)版画巻】を出品、この作品が縁で柳宗悦(むねよし)、浜田庄司、河井寛次郎ら民芸運動の指導者たちに出会ったんだよね?
(@_@)その通り!「当たり前なのが最も美しい。自分で出来る仕事などたかが知れている。本当のものは個人を超えたところにある」という民芸の主張は驚きで、これまで芸術は個人の力と考えていた志功は、この出会いから民芸の心を学び、その背後にある仏教の思想を知ろうとしたそうです。
(O_O)自分が今まで正しいと思って努力して作品を制作してたのに、そんな出会いをしたら、確かに変わるよね〜…
(@_@)彼は乾いた砂が水を吸うようにそれらを吸収し、猛烈な読書家であり努力家であったので、この勉強で彼の作品は急速に深みを増し、1作ごとに驚くほどの進歩を見せたそうだよ…。【華厳譜】【東北経鬼門(きょうきもん)譜】【善知鳥(うとう)版画巻】【観音経版画巻】【釈迦十大弟子】などの傑作が、それからわずか2、3年の間につぎつぎと制作されたんだって!
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棟方志功さんが版画に関心を持ち始めたのはかなり早い時期になるそうです。
(@_@)1926年、国画創作協会展で川上澄生の版画【はつなつの風】を見て心を打たれたそうです。
(O_O)志功はそのころ油絵について「神様のような安井・梅原でさえ油絵では西洋人の弟子にすぎない」と疑問を持ち、「日本から生まれた仕事がしたい」と願っていたみたいだね!(本を片手に)
(@_@)川上の版画はその回答に思え、「尊敬するゴッホでさえも日本の浮世絵に学んだ。版画こそ日本の芸業だ」と志功は考えたみたい…
(O_O)今までやってた事を捨ててまで学びたいと思う姿は、日本人の勤勉さだね!
(@_@)でも油絵を棄てて版画に専念するのは、それから10年後のことだから、さすがの志功さんも悩んだんじゃないかな…
(O_O)実際問題として、当時版画で生活できた人は皆無に等しかったみたいだしね…
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上京してすぐに、棟方志功さんは現実を思い知らされたそうです。
(@_@)故郷時代、志功は油絵に打ち込んでいたそうです。その時雑誌『白樺』に載ったゴッホの【ひまわり】の原色版を見て大きく感動し、日本のゴッホになろうと決意したんだそうです。
(O_O)わー!凄く意志が強い人なんだね!
(@_@)勉強は十分してきたつもりであったが、小学校を出ただけの学歴で、しかも師匠もおず、美術団体にも属さないぽっと出の田舎者だったそう…
(O_O)そうでなくても美術界は系列や序列に厳しいところであるから大変そうだね…
(@_@)その通り!もっていった紹介状も無視されるし、上京してすぐの帝展にはもちろん落選する。出品した【合浦公園池畔】は青森時代の自信作であったけど、帝展初入選は4年後の5回目のこと!
(O_O)時間かかるなぁ…
(@_@)同郷の志功より早く出世した画家たちは「棟方さんはデッサンが出来ていない」と言われていたみたい。
(O_O)でもそういう人ほど努力したんじゃないかな…
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(@_@)棟方志功さんは小さい頃から絵を描くことが得意で友人に絵を描くことを頼まれたりしており、お礼になにかを貰うといったようなビジネスもやっていたそうです。
(O_O)幼い頃から美術家としての将来を見据えていたんですね!
(@_@)しかし、学校での図工の成績はいつも丙か丁(今でいう2か3)ばかりだったみたい…
(O_O)えー!なんでー!?得意じゃなかったの?
(@_@)当時は教科書や見本通りに描かないと先生から評価してもらえない時代だったみたいです。
(O_O)なるほどなぁ〜それは時代関係なく今でも学校は成績重視な気もするなぁ〜笑
(@_@)確かにそこが美術の難しい部分でもあると思います…でも本格的に美術を目指したキッカケはかっこいいっすよ!
(O_O)なになにー?
(@_@)それまでは趣味で描いていた絵だったが、小学6年生のとき、授業中に飛行機が堕ちたというので生徒全員が教室を飛び出して走って行く途中、志功はつまづいて転んでしまったそうです!その時、倒れた目の前にオモカダの花が咲いており、志功はその花に見とれ、この美を表現する人(画家)になりたいと思ったそうです。
(O_O)素敵〜!この絵も見事に表現されていますね!
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棟方志功さんには沢山の魅力がある事が分かりましたね!3日目の今日は性格についてお話します。
(@_@)棟方志功さんは15人兄弟の6番目、3男として、青森市に生まれたそうです。
(O_O)青森県のリンゴジュースは格別だよね〜♥︎
(@_@)(リンゴジュースの話は関係無いから無視。笑)家系は代々鍛冶(金属を鍛錬して製品にすること)屋で、志向の父(幸吉)を養子に迎えた時には弟子が数人いたが、幸吉が職人気質な性格上、仕事を選り好みしたりし、志功の物心がつくころには生活はかなり苦しいものとなっていたそうです。
(O_O)苦労したんですね〜美術家の方は幼い頃苦労した人が多い様な気がします。
(@_@)兄弟がとても多く、次から次へと弟や妹が生まれたため、母は幼児の世話をするため、志功はおばあちゃん子として育ったそうです。信心深い祖母のそばで育った志功は、自然と祈りの心が芽生えていったそうです。
(O_O)その優しさが作品に反映されていますね…この女性の表情も優しく包み込んでくれそうです。
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