(⌒▽⌒)戦時中日本に戻っていた藤田 嗣治には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請がありました。
(≧∇≦)国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものでした。
(⌒▽⌒)しかし、彼はクリスチャンの思想を戦争画に取り入れ表現しています。
花田美術では藤田嗣治さんの買取相談を承っております。
(⌒▽⌒)1914年、パリでの生活を始めてわずか一年後に第一次世界大戦が始まり、日本からの送金が途絶え生活は貧窮した。戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともあったそうです。
(≧∇≦)そんな生活が2年ほど続き、大戦が終局に向かいだした1917年3月にカフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と二度目の結婚をしました。
(⌒▽⌒)このころに初めて藤田の絵が売れ、最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3ヵ月後には初めての個展を開くまでになったそうです。
(⌒▽⌒)藤田 嗣治さんは1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えました。
(≧∇≦)当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合います。
(⌒▽⌒)また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだします。
(≧∇≦)また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴ら日本人とも出会っています。
(⌒▽⌒)このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなりました。
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(⌒▽⌒)森鴎外の薦めもあって藤田 嗣治さんは1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学します。
(≧∇≦)しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動しました。
(⌒▽⌒)観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原に通いつめるなどしていたそうです。
(≧∇≦)1910年に卒業し、精力的に展覧会などに出品したが当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選していたそうです。
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(⌒▽⌒)藤田 嗣治さんは1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれました。
(≧∇≦)父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物です。
(⌒▽⌒)兄・嗣雄(法制学者・上智大学教授)の義父は、陸軍大将児玉源太郎です(妻は児玉の四女)。
(≧∇≦)また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野(詩人中原中也の名づけ親<父が中村の当時部下>)が、従兄には小山内薫がいます。
(⌒▽⌒)甥に舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信がいます。
(≧∇≦)なお藤田のその他の親族に関しては廣澤金次郎・石橋正二郎・鳩山由紀夫・郷和道・吉國一郎・吉國二郎(6人とも藤田と姻戚関係にある)の各項目に掲載されている系図を参照。藤田もこの系図に掲載されている、エリート家系です。
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