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こいそ りょうへい

小磯良平

略歴

1903年7月25日 - 1988年12月16日(享年:85歳)

1903年 7月神戸市中央区で生まれる。

1925年 小磯家へ養子に入る。(旧姓は岸上)。東京美術学校西洋画科在学中、第6回帝展に「兄妹」が初入選。

1926年 「T嬢の像」が特選受賞。その才画が注目される。

1927年 美校を主席で卒業。卒業制作は親友で詩人の竹内郁をモデルにした「彼の休息」。

1928年 渡仏して2年間滞在。

1930年 帰国後、光風会や帝展に出品する。

1936年 帝展改組に伴い猪熊弦一郎、内田厳らとともに新制派協会を結成。

1940年 第11回朝日文化賞。

1942年 帝国芸術院賞。

1953年 東京芸術大学教授。

1974年 迎賓館赤坂離宮大広間の壁画、「絵画」「音楽」が完成。

1979年 文化功労賞。

1982年 日本芸術院会員になる。

1983年 文化勲章を受賞。

1988年 神戸市東灘区で死去。

小磯 良平(こいそ りょうへい)神戸出身の洋画家である。東京美術学校西洋画科を卒業。清純な女性像は特に人気がある。昭和58年文化勲章を受章。

こうべ、明治はじまる

 小磯良平のふるさと神戸の歴史は、1868年1月1日(旧暦、慶応3年12月7日)の兵庫開港と、外国人居留地の建設に始まる。外国人居留地は、1899年(明治32年)7月17日、日本に返還された。30年のあいだに、かつての砂浜は、整然と区画された街路に洋風建築の商館が建ち並ぶ、市街地に変わっていた。馬車道には石畳、歩道はレンガの舗装がされ、街路樹の並木に続き、ガス灯で夜の街は明るかった。日本人がはじめて識る、公園と呼ぶ憩いの広場も作られている。それらは神戸の住所がはじめて学ぶ、都市の形態と機能、そして経営であった。神戸のモダニズムの幕があった。

 海の手の外国人居留地に対して、神戸の山の手には、日本人が住む新しい市街地もつくられ、各地から人が集まる。北摂三田の旧藩主、九鬼隆義夫妻も、大勢の家臣やその家族と一緒に三田から神戸へ移住した。九鬼隆義の一統は、北海道開拓心社や、医学西洋ならびにキカイ所志摩三という会社を設立して、殖産、貿易、商業、不動産などの経済活動をおこない、神戸の実業界で台頭していった。

 経済活動とは別に、九鬼隆義の一統は、特筆に価する社会活動をしている。キリスト教の信仰に燃えて、アメリカ・ミッション・ボードの宣教師グリーンを支えて、関西で最初の日本人によるプロテスタント系のキリスド教会、摂津第一基督公会(現・日本キリスト教団神戸教会)を設立したのは、1874年(明治7年)4月であった。翌1875年には、キリスト教信徒の子女に家庭教育を広めるために、婦人宣教師タルカットとダッドレイに協力して、神戸ホームを設立している。神戸女子神学校と神戸女学院は、神戸ホームの発展したものである。小磯良平は、九鬼隆義とその一統が神戸で形成した集団社会に深い縁で結ばれている。

モダニズムの子

 外国人居留地が返されてから4年。1903年(明治36年)7月25日、小磯良平は貿易を営んでいた岸上(きしのうえ)文吉、こまつ夫妻の次男として生まれた。このころになると、外国人居留地の中へ移り住む日本人、外国人居留地の外へ移る外国人が多くなり、神戸は内外人が雑居する街へと変化し始める。小磯良平は、そのような町の子として育つ。

 小磯良平が岸上家と縁がある小磯吉人(よしたり)、英夫妻の養子になったのは、東京美術学校に在学していた1925年(大正14)のことであった。養母の小磯英は、小磯良平の祖母岸上りきの姪になる。ちなみに、東京美術学校に在学する小磯良平を、寄宿させていた国会議員の小寺謙吉は、旧九鬼藩の奉行小寺泰次郎の子で、小磯英の弟であった。小磯良平の祖父岸上角次もまた九鬼隆義の有力な側近であった。岸上家も小磯家も、神戸教会の信徒という縁で結ばれている。小磯良平は、その生涯を神戸教会の一信徒として過ごす。

 経済集団であり、キリスト教の信徒集団でもある九鬼隆義の一統が形成した社会環境は、幼少年期の小磯良平の人格を培うゆりかごであった。このゆりかごは、明治の初年からの外国人居留地というモデルと、キリスト教の信仰を通して、欧米の物質的文化と精神的文化の両面を摂取しつづけてきた。私はこのゆりかごをモダニズムと考える。小磯良平は、モダニズムの子であった。

絵ごころの目覚め

 小磯良平は、小学校6年生のとき、神戸女子学校へ教頭として迎えられた父親の田中兎毛にともなわれて札幌から転校してきた田中忠雄(のちの洋画家)と知り合い、友人になった。2人は、県立第二神戸中学校に進学する。この学校は通称を神戸二中と呼ぶ。現在の県立兵庫高等学校である。中学生になった小磯良平は、生涯の親友になった竹中郁(詩人)と知り合う。

 小学生のときから本格的に絵を学んでいた田中忠雄から、中学校の放課後に水彩画のスケッチ散歩に誘われて、小磯良平の絵ごころは目覚めはじめる。竹中郁も加わって、3人のスケッチ散歩は日課のようになっていく。当時の神戸二中では、美術教師の野崎恵の指導のもとで校内美術展が盛んであり、洋画家として名をなす中山正實や、古家新などが活躍していた。3人もその仲間になっていく。卒業のころは、東山魁夷が入学する。

 小磯良平は、1922年(大正11年)4月東京美術学校に入学して、1927年(昭和2年)3月、首席の成績で卒業した。在学中は藤島武二教室に通う。同期生の顔ぶれが素晴らしい。猪熊弦一郎、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小堀四郎、中西利雄、藤岡一、山口長男(たけお)などの名前が揃う。小磯良平は、中学校と美術学校をとおして良き師良き競争相手に恵まれて、画家として切磋琢磨する機会を得た。その結果は、第7回帝展(1926年)に発表した【T嬢の像】が、特選となることで実を結んだ。

 小磯良平が神戸二中の生徒であった1921年、倉敷の町の小学校で、フランスから到着したモネの【睡蓮】、マチスの【画家の娘】など、18作家、27点のフランス絵画が公開された。第1期の大原コレクションである。小磯良平はこの公開展示を知ると、竹中郁と2人で夜汽車に乗り、倉敷に向かった。自分の眼で確かめたはじめて見るフランス絵画。少年たちの心は震えた。

 この小旅行から7年後、青年になった2人は欧州への旅に出る。この旅行は1928年(昭和3年)に始まり、1930年に終わる。目的地はパリ。画家を志す小磯良平にとっても、詩人を志す竹中郁にとってもパリはまぶしい存在である。2人は、それぞれに将来に築こうとしているもののため、多くの心の糧を持ち帰る。帰国後、小磯良平はアトリエを建てた。画壇へ乗り出す刻(とき)は来た。

▣小磯良平の戦争記録画
 「戦時状態のフィルムを私は現代、ことに我邦に於いては次につづく建設的な段階に於いて考えられるフォルムでなければならない。私達の最も自覚しなければならない点はこれであると思う。旧時代の戦争は直ちにその惨禍によって連想されるものであった。が現代はそうではない。(略)私は戦争画の形式を規定しようとは思わないが、過去2、3年来の日本の戦争に関する絵画に半疑惑を、あるいは不満を感じている。」  1939年(昭和14年)の第4回新制作派展パンフレットに寄稿した、小磯良平の『戦争美術私惑』の一節である。これ以後、小磯良平は戦争記録画については口を閉ざす。その心境を知る者はいない。4回戦地へ派遣された小磯良平は、【娘子関を征く】で第1回芸術院賞を受け、【南京中華門の戦闘】に第11回朝日賞が贈られた。2つの絵には疲労した兵士は描かれても、激戦や死の影はない。  1941年の第4回新文展で小磯良平は審査員出品として【斉唱】。この年12月8日、日本はパール・ハーバーを襲う。私は、この絵が小磯良平の真の戦争記録画であると思う。

暗い時代の清新な旅立ち

 画家小磯良平の活動が本格化する昭和初期に、美術界にある混乱が生まれた。1935年(昭和10年)、時の文部大臣松田源治は、美術界に挙国一致を整えるため、それまでの帝国美術院規定を廃止して、新しく帝国美術院管制をを制定し、美術界を文部省の統制のもとに置くことを考える。2年後に始まる国民精神総動員運動や、さらに3年後に結成する大政翼賛会に結びつく動きであった。この松田改組に対する美術界の反発は激しく、なかでも帝展第二部(洋画)関係者は、改組後の帝展への出品を拒否して、第二部会を結成して独自の活動を始めた。文部省はこの混乱を解決するため、帝国美術院と帝展を廃止することを決め、美術以外の分野も含めた帝国芸術院を新設する。また帝展に代わる文部省美術展(新文展)を1937年に開催することにした。

 新しい文部省の計画を知って、第二部会は軟化し新文展へ参加するが、このとき小磯良平は猪熊弦一郎その他の同志とともに、第二部会を脱退して新制作派協会(現・新制作協会)を結成した。同協会第一回展について、美術研究所(国立文化財研究所の前身)が発行した日本美術年鑑(1937年)の記事は伝える。「一般の出品は523点の中58点を入選せしめ、会員は各自力作数点宛を出し、賛助出品を併せて87点を列した。」「青年らしい純粋と熱情を以て興された芸術運動であることと、官展廃止の意見を発表した会員等の師藤原武二が進んで此の会の賛助出品したことも与って、本年度の重要なる新運動として注意されたのであった。」と。このときの小磯良平は33歳、他の同志もっすべて同年輩であり、モダニズムと反官展の旗のもと、清新の気に満ちて新制作派協会は旅立った。

▣生涯の友、竹中郁
 『竹中郁氏像』の年記は1941~51年である。1941年(昭和16年)のある日、竹中郁の洋服が良いと、小磯良平はスケッチした。洋服が目的だから顔は省略する。1951年のある日、画帳を開きつつ竹中郁と談笑していると、10年前の素猫が見つかる。空襲で家を失った2人だが、無事でなにより語りながら顔を描き足して、小磯良平は素猫を友に贈った。  10年前の体と10年後の顔。絵に秘められた友情は温かい。竹中郁の腰掛けた姿勢は、【彼の休息】の姿勢に似ている。2人は思い出しているだろうか、その昔を。

 だが国情は戦時色を濃くする。戦争記録画制作のため、陸海軍報道部の命令で、多くの画家が戦地に派遣された。小磯良平は1938、40、41、42年の4回、従軍を命じられている。1945年5月、米国空軍の神戸空襲は、小磯良平の住居とアトリエを焼き払い、多くの作品が廃燼(はいじん)に帰した。日中戦争から太平洋戦争へと拡がった戦争は、日本の敗戦で終わる。この大戦の時代が、小磯良平を含める同世代の画家におよぼしたものは何か。その何かはまだ解明されてない。

激動の時代の平安

 日本政府は、1945年(昭和20年)8月15日、ポツダム宣言を受諾して、同年9月2日に降伏文書に調印した。そのときから、1952年(昭和27年)4月28日に体日講和条約が発効するまでの7年間、連合軍占領下の時代は続く。その歳月は、大戦下の時代以上に、日本の伝統的価値観と文化が訓練に晒された長い時間であった。そのような戦後の日本で、小磯良平は1950年(昭和25年)から1971年(昭和46年)まで、東京芸術大学の教壇に立った。大戦後の海外では、新芸術思想、新芸術表現が厳しく現れては消え、その様相は流行と呼ぶことが出来る。流行の大波小波の余波は日本を洗う。その時流のなかで、教育者小磯良平は、油絵の本質を指し示すコンパスのごとく、教え子の指針となっていた。

 1988年(昭和63年)12月16日、85年の生涯を終わり、小磯良平は眼を閉じる。油絵でなければ表現することはできない絵を描いた。六十有余年の画業の幕はおろされた。遺された作品は、モダニズムの光を放ちつつ、油絵の本質を指し示しながら、鑑賞する者の心に滲み透る清澄な情感をたたえる。それは平安と呼ぶ世界である。激動の20世紀に声明を受けた画家なればこそ、表現することができる平安である。

 1945年(昭和20年)4月、富山県福光町に疎開する。同年暮れ、戦後初の仕事として【鐘渓頌(しょうけいしょう)】24棚(さく)を完成させた。裏彩色の復活など、この作品は新しい試みあふれ、志功の板業に1つの転機をもたらすものとなった。

 同時代人の多数が、激動の時代であるがゆえに求めていた平安。小磯良平の作品は、同時代人が心に秘めたそうした思いの証言であるのかもしれない。

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