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はやみ ぎょしゅう

速水御舟

略歴

1894年8月2日 - 1935年3月20日(享年:41歳)

1894年 東京浅草に生まれる。

1908年 松本楓湖の安雅堂画塾に入門。小茂田青樹も同日に入門。

1910年 巽画会に「小春」が入選。

1911年 新鋭作家の研究団体「紅児会」に参加する。

1913年 第13回巽画会で「萌芽」が銅賞受賞。

1914年 新日本画研究団体「赤曜会」を結成。第1回院展に「近村」を出品し院友となる。

1917年 第4回院展に「洛外六題」を出品し同人に推挙される。

1925年 代表作となる「炎舞」を完成させる。

1929年 第16回院展に「名樹散椿」を出品。

1935年 死去。享年41歳。

速水 御舟(はやみ ぎょしゅう)東京浅草に生まれの日本画家である。本名は蒔田 栄一(まきた えいいち、後に速水に改姓)。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写を特徴としている。代表作「炎舞」は山種美術館蔵。

生い立ち

 速水御舟は1894年(明治27年)8月2日、江戸以来、常に庶民文化の中心地であった浅草に質商を営む蒔田良三郎と妻いとの次男として生まれた。本名を栄一という。次男で栄一という名前は母方の里である速水家に後継ぎがないので、蒔田の家に2人男の子が生まれたときは速水のあとを継ぐという約束になったためという。父の良三郎は13歳のときに上京して古着屋奉公から実業貯蓄銀行の設立にもかかわった実業家肌の人で、母親の祖父も札差板倉屋の番頭というあまり美術とは縁のないような家に育つのだが、当時は明治維新から続く価値観の変動期で、没落した武士階級の人々や扶持を離れた能役者など客層もいろいろで、質草も父祖伝来の武具や書画骨董、能衣装など今では考えられないくらい美術的価値の高いものも多かった。また浅草という土地柄もあって、あらゆる職業のさまざまな事情をかかえた客と家人との悲喜こもごもの駆け引きを垣間見ることも多く、幼いころからこれらの事柄を見聞きしていたであろうことは、この早熟の天才といわれる画家にとって、大きな糧となっていることが考えられるのである。

苦は(9羽)楽の種

 御舟より5歳年下の妹麻子(あさこ)によれば、幼いころの栄一は動作の1つ1つがゆっくりしていて、せっかちな自分から見るとたいそうまどろっこしかったという。しかし欲しい物があると子供らしく駄々をこねるのだが、それが徹底していて浅草の仲見世のいちばん人通りの多い道のまん中で大の字になり、買ってもらうまでけっして諦めずに家族をずいぶんでこずらせ、のちのちまでの語り草になっていたという。また母親のいとも質屋のおかみさんとしては無類のお人好のうえにどこかとぼけたところのあった人で、夫の女性問題ではかなり悩まされていたにもかかわらずその相手の髪をとかしてやったり、お風呂の中で食べる握りめしに勝るおいしいものはないと言ってはしょっちゅう食べていたといった風で、栄一少年もそれをまねて喜んでいたという。御舟の性格に見られるどこかとぼけた味は、この母親譲りといわれている。父の良三郎は栄一が学校を卒業したら横浜の商館に就職させるつもりでいたのだが、卒業間近の年の瀬に、絵を描くことが何より好きだった栄一は、自宅茶の間の張り替えたばかりの大襖間に9羽の鶏の絵を描かせてもらった。「苦は(9羽)楽の種」の格言を捩(もじ)ったというこの絵を、近所の安雅堂(あんがどう)画塾の執事だった神谷毅が年賀に訪れたときに見て、すっかり感心してしまい、栄一の塾への入門をしきりに勧めたことが良三郎の気持ちを動かし、通っていた育英高等小学校卒業の4ヶ月後、14歳で安雅堂画塾に入門することとなる(奇しくも15年後には、日本画家の杉山寧(やすし)が同小学校を卒業している。このことは浅草という土地柄を考えるうえでも興味深い)。

よく遊び、よく学ぶ

 安雅堂画塾を主宰する松本楓湖(ふうこ)は容斎(ようさい)派の歴史画家で、当時文展(文部省美術展覧会)の審査員も務める画壇の重鎮であったが、その教育法は放任主義ともいうべきもので、ほかの塾では大事にして上達しないと手も触れさせないような宋元古画や大和絵(やまとえ)・琳派(りんぱ)等の粉本(ふんぽん)類を塾生の技量に関係なく、手当り次第に模写をさせるというものだった。栄一はいきなり大和絵の古絵巻を模写することとなり、苦労の末になんとか仕上げたが、その出来の良し悪しについても何も言われるわけでなく、すぐにまた任意に渡される次の粉本の模写にかかるというそのくりかえしだったという。栄一は入門して半年後に師から禾湖(かこ)の号を授けられた。そして最初に描く自分の絵の題材として猫を選び、下絵を描いて先輩に見てもらった。すると、歴史画の先生の塾生がなんで猫などを描くのかと大いに馬鹿にされたので、それならばと先賢湖実(せんけんこじつ)を参考にして、《義経弓流し之図》を描いた。すると塾頭の中島光村(こうそん)から、道楽でなく、もし本気で絵描きになるつもりなら、本当に物を見て、自分で工夫して描かなければだめなんだとたしなめられてしまう。御舟はこのとき受けた忠告によって絵とはどういうものかということを自覚したと、のちに語っているが、この忠告を入れて、次の研究会には東京近郊の農村風景に取材した作品を描き、今度は大いにほめられたという。このような塾での勉強とは別に、牛田雞村(うしだけいそん)、小茂田青樹(おもだせいじゅ)、小山大月(こやまたいげつ)と気の合った塾生たちが集まり団栗(どんぐり)会と称して遠足をかねた写生会をおこなったり、図書館、博物館に出かけた。また少年らしく当時それぞれが神様のように尊敬していた大観(たいかん)や春草(しゅんそう)等の図版の切り抜きや、自分たちが描いた作品を持ち寄っては大いに批評し合い、それが終わると動物の鳴きまねでまた大騒ぎという、無邪気ではあるが、じつにうらやましいひたむきな勉強ぶりだった。ここでの仲間たちは御舟にとって終生の友となった。

萌芽

 1910年(明治43年)、栄一は当時の若手画家にとって登龍門てき存在だった巽画会(たつみがかい)に《小春》を初出品する。そして翌年の第11回展では《室寿(むろはぎ)の讌(えん)》が1等褒賞を受けて宮内省買い上げとなるなど早くから頭角を現している。そしてこの年、塾の先輩今村紫紅(いまむらしこう)の知遇を得て新進有力画家のあつまりだった紅児会(こうじかい)に最年少の17歳の会員として迎えられるが、この会を通じてのちの再興院展の主要メンバーとなる小林古径(こけい)と親交を深めることとなる。1912年(明治45年)、栄一は画号をみずから浩燃(こうねん)と改め、第6回文展に《萌芽》を出品するが意に反してみごと落選してしまう。これに納得できない栄一は一部手直しをして翌年の第13回巽画会に再出品するのだが、これが銅賞一席となり、原富太郎(三渓)の所蔵するところとなる。そして三渓から月々の研究費が与えられるようになったことは、そのころ経済的にも苦しかった栄一にとってなによりの励みになったとともに、以後横浜の原家に出入りできるようになり、三渓自身やその所蔵する古今の名品にじかに触れることで多くの示唆を受けることとなった。

兄弟子 今村紫紅

 1914年(大正3年)、栄一は正式に速水姓(戸籍上は15歳のとき、速水家の養子となっている)を名のり、画号も、それまでの浩然から御舟とする。御舟は原家からの研究費を得て雞村と青樹の3人共同で京都に家を借り、画作に励んでいたが、東京にいる紫紅からの美術院再興の知らせで急ぎ帰京。紫紅が仮寓していた目黒の吉田弥一郎本邸の門前にある弥一郎の家作(通称出世長屋)に移り住む。あとから紫紅を慕って安雅堂画塾以来の仲間たちも周辺に移ってきて、この年の12月、紫紅を中心として、御舟、雞村、青樹、大月、富取風堂(とみとりふうどう)、黒田故郷(くろだこきょう)、岡田壺中(おかだこちゅう)によって(あとから中村岳陵(なかむらがくりょう)も参加)、のちに院展目黒派ともよばれる赤曜会(せきようかい)を結成する。この会の主旨はすでに形髄化しつつあった日本画表現をいったん壊し、さらに自由な新たなる表現を模索する。そのためにはあえて、それまでの世間一般の常識をも見直してみるというもので、会員は赤地に黒く悪と記したバッジ(悪と善とは表裏一体のもので、醜のなかにも美を見いだそうという紫紅の発案による)を胸に揃いのトルコ帽をかぶって銀座通りを闊歩し、気に入らない相手がいると誰彼なしに喧嘩を売るなど、かなりのデカタン的行為で世間の顰蹙(ひんしゅく)を買うこととなった。またその名の由来となった目黒夕日岡(ゆうひがおか)にフランスのアンデパンデン展にならったテント張りの会場をしつらえ、会場内では酒や菓子なども売り、物織り顔の客やいいかげんな批評家を見つけると酔った勢いでステッキをふるって、追い帰すという形破りの展覧会を開いた。この会場を訪れた大観を皆で雪隠詰(せつちんづめ)にしたという逸話はこの会の特質をよく表している。紫紅は明治以降、あまりかえりみられることのなかった南画の技能にあらためて着目し、それに印象派や大和絵の描法を加味して大和絵風南画ともいわれる独自の様式を確立するが、このころの御舟は思想的にも芸術的にも紫紅から多大な影響を受け、その作品も紫紅様式に従って描かれることが多かった。

 しかし1916年(大正5年)、紫紅が35歳の若さで急死してしまうと、赤曜会は3回の展覧会をおこなったのみで自然消滅となり、会員一同はそれぞれの道を求めて各地に散るが、御舟は再び京都へと向かった。

画家 速水御舟

 1917年(大正6年)第4回院展に出品の《洛外六題(ろくがいろくだい)》は大観ら院幹部の絶賛を受ける。普段は寡黙な観山(かんざん)までが「自分は今まで展覧会の鑑査で、今度の速水御舟君の《洛外六題》ほど立派な作品に接したことがなかった。あれはじつに素晴らしい出来で、大和絵と南画をもっともよく融合されたみごとな作品である」と語ったと伝えられるが、この年、御舟は23歳の若さで同人に推挙される。一躍画壇の寵児となった御舟は帰京を勧められるが、翌年にはより閑寂な地を求めて、まだ電灯すらなかった洛北修学院村(らくほくしゅうがくいんむら)にある林丘寺(りんきゅうじ)内雲母庵(きららあん)に移り住み、自然のなかで芸術三昧の生活に入る。ここでの生活は第5回院展出品作《洛北修学院村》に結実するが、画風はそれまでの紫紅様式を離れ独自の道を模索する端緒につくものであった。1919年(大正8年)、一時、帰省中だった御舟は浅草駒形で市電に轢かれ、左足首下を切断という事故にあう。これ以後御舟は義足生活を余儀なくされるが、この事故を境として画風はそれまでの様式を完全に離れ、客観性を重視した細密描写へと移行する。翌年の第7回院展に《比叡山》とともに出品された《京の舞妓》はその代表的な作品だが、この絵を見た大観は日本画そのものを壊す悪写実と激怒、御舟の院除名まで考えたといわれる。これは靫彦の執りなしで事なきを得るが、以後も御舟は院展を中心として常に問題作を発表しつづけることとなる。

 1921年(大正10年)御舟は吉田弥一郎の四女で、終生の友だった幸三郎の妹でもある吉田弥(いよ)との結婚を機に東京へ戻る。この年の第8回院展に出典された《菊花図》《渓泉二図》では、前者は客観写実による細密描写を金屏風という伝統的装飾空間に生かし、後者では《洛外六題》に見られる南画と後期印象派を結びつけた点苔(てんたい)描法と、セザンヌ風の筆致をより的確な方法で用いることによって空間構成と装飾性をみごとに両立させている。このような同時多発的追求は御舟芸術に特徴的なものだが、私生活面でも平林(へいりん)寺(埼玉県新座市)での参禅生活や、同寺近くの片山村(かたやまむら)での共同生活など画作のために常にみずからを律することを心がけていた。そしてこのような探求のなかから象徴性の強い幻想的な画風による《炎舞(えんぶ)》や《昆虫二題(葉陰魔手(よういんましゅ)・粧蛾舞戯(しょうがぶぎ))》が生まれ、さらにこれらの作品にみられる象徴性と西洋のキュピズムや伝統的な琳派の装飾性とを結びつけることで、《名樹散椿(めいじゅちりつばき)》にみられるような新古典主義ともいうべき御舟様式を確立させる。1930年(昭和5年)、ローマ開催日本美術展のため渡欧して以後の御舟は、人物画に新たなる表現を求めるのと並行して、再び東洋画の原点に立ち戻ったかのような墨を主体とした独自の表現を試みていた。そしてさらなる展開をめざして画壇と距離をおいたどこか遠隔の地での研究生活を夢見ていたが、1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスという突然の病でこの世を去った。 

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